旧東海道は、江戸時代に江戸と上方を結ぶ陸上の大動脈であった。これは、その街道に架けられた一つの橋の物語である。
裁断橋は、宮(熱田)宿の東の入口にあった。下を流れる精進川が大正15年に河川改修のため埋め立てられて橋は廃止され、欄干だけが遺されたが、その後、地元民の愛惜の情に応えて場所を移し、長さを縮め、橋が復元された。この橋がなぜ復元されて遺されているのか。それはその架橋の由来にある。
いまから約420年前の天正年間、豊臣秀吉は天下一統をめざし小田原攻めの軍を進め、これに堀尾金助という若武者が従軍したが、陣中で病没した。この橋は、金助の母が子の冥福を祈って架けたもので、架橋発起の趣旨が欄干の青銅製の擬宝珠に刻まれている。
てんしやう十八ねん二月十八日に
(天正18年)
をたはらへの御ちんほりをきん助と申
(小田原への御陣) (堀尾金助と申す)
十八になりたる子をたヽせてより又ふため
(発たせて) (二目)
とも見さるかなしさのあまりにいま
(見ざる悲しさの) (今)
このはしをかける成はヽの身にはらくるいと
(橋を架けるなり。) (母の身には落涙)
もなりそくしんしやうふつし給へ
(即身成仏し給え)
いつかんせいしゆんと後のよの又のちまて
(逸岩世俊(金助の法名)) (世の又後まで)
此かきつけを見る人は念仏申給へや
(この書付け) (念仏申し給えや)
卅三年のくやう也
(33年の供養なり)
出陣を見送った子が短い生涯を閉じて以来、母はその後生を弔う日を送ったが、出陣を見送った熱田の裁断橋が老朽化しているのに気づき、これを修復したならば諸人の助けともなり、金助の菩提を弔うことにもなると決心して、橋の架け替えを果たした。母はさらに三十三回忌に架け替えを志したが、途中で死去し、志を引き継いだ養子が元和8(1622)年に架け替えた。銘文はその際のもので、子を思う母の情が切々と読む人の心を打つ。東海道を上下する多くの旅人に読まれ、涙をさそったことだろう。
なお、擬宝珠4基(和文刻銘1、漢文刻銘3)は、いまは名古屋市博物館で保存されている。
川波 重郎
写真提供: 土方浩三氏
資料
☆ 日下英之 「熱田歴史散歩」 風媒社(1999年4月2日第1版)
☆ 児玉幸多監修 「東海道五十三次を歩く 4」 講談社(1999年11月15日第1刷)
☆ 横山吉男 「東海道歴史ウォーク」 東京新聞出版局(2000年11月20日初版)
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