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江戸の種痘所        読者の感想の便り


江戸の種痘所
 天然痘は、その伝染力の強さと致死率の高さとで人類を苦しめ続けた病気であったが、18世紀末に英国の医師ジェンナーが牛痘種痘法を確立し、この手法は世界各地に伝えられた。新鮮で有効な痘苗を伝えるためには、牛痘の膿汁を人に接種し人から人へと植え継ぐ方式によることから、痘苗が日本に到達したのは、ジェンナーの発明からほぼ半世紀を経過した後だった。1849年、長崎のオランダ商館の医師がジャワから輸入した痘苗を接種し善感、すなわち免疫力の獲得に初めて成功した。この報と痘苗は蘭方医の人脈を通じすみやかに伝わり、種痘は佐賀藩内から短期間のうちに京都、大坂など各地に広まった。
 いっぽう江戸では、状況が違った。幕府の正統医学である漢方の医師の勢力が強く、蘭方医学禁止の布達が出されていたのである。だが、蘭方医学をしだいに無視できなくなり、幕閣に開明派が進出するなかで蘭方が解禁間近となる。1857(安政4)年8月、伊東玄朴、戸塚静海、竹内玄同、大槻俊斎ら蘭方医は神田お玉ケ池の幕臣川路聖謨の下屋敷内に牛痘接種のための機関の設立を議決し、その旨の伺書を幕府へ提出した。翌年この許可が下りたので、前記の人たちが世話役となって、建築、運営のための資金を江戸在住の蘭方医に募った。83人の蘭方医たちが総額580両余りを出し合い、同年5月にお玉ケ池種痘所を開設した。種痘、診療、鑑定の三つをその任務の主なものとし、種痘は当番医が交代でこれに当たった。なお、開設の2か月後に蘭方が解禁され、蘭方医が幕府の奥医師に登用された。
 長崎での種痘成功から9年を経て、ようやく江戸に種痘所が開設されたが、ここで思いもかけない災厄が発生した。この年の11月、神田の大火で種痘所が類焼したのである。事業を推進した玄朴ほかの落胆はひとかたならなかった。そこで大槻俊斎と伊東玄朴宅を臨時の種痘所とし、事業を継続しながら種痘所の再建を図ることとなったのであるが、そのための資金集めは困難を極めた。半年前に醵金した同志に再度の拠出を求めるのは無理であり、またこのような新事業にたいし理解ある人が少ないのも当然で、再建は危ぶまれた。そこで、再建に熱心な同志の一人である三宅艮斎(佐倉堀田藩医)が多年懇意にしていた濱口梧陵に、江戸に多くの富豪がありながら援助する者が一人もいないと嘆き、この窮状を訴えた。
 濱口梧陵は、紀州有田郡廣村(いまの広川町)の豪農濱口家の分家に生まれ、12歳で本家を継いだ。名は成則、字は公輿、通称は儀兵衛。梧陵は号である。濱口家は、元禄年間に銚子で醤油醸造業を始め、水運を利用し大消費地江戸に商品を運び販売していて、深川にも出店していた。享保、宝暦の頃には江戸第一の醸造家としてその名を馳せていて、現在もヤマサ醤油の名で知られる。梧陵は銚子で元服、家業の修行を続け、いったん郷里に戻ったが20歳で結婚し半年後に銚子に戻り、その後国元、江戸、銚子を往復して家業に励んだ。その傍ら31歳で佐久間象山の門下生となり勝海舟と知り合い、さらに福沢諭吉ほか多くの学者、政治家と交際し見解を広め、通常の財力ある商人とは異なる経世済民の人物であった。三宅艮斎とは梧陵22歳のとき銚子で開業した艮斎と知り合い、交友は生涯続いた。
 艮斎から窮状を聞いた濱口梧陵(40歳)は、即座にすすんで金300両という巨額の寄附を承諾した。これに勢いを得て他の有志の寄附金もあり、ようやく再興資金の調達ができたので、1859(安政6)年9月、下谷泉橋通り(いまの三井記念病院付近)に種痘所を新築、移転し、種痘を再開した。
 1860(万延元)年、種痘所は幕府直轄となり、ますます活発にその事業に励んだ。このころの種痘所は既に蘭方医学の教育研究機関であり、医術を修得するための研修機関であったから、図書あるいは医学機械・器具もそれ相応に備えなければならなかった。とはいうものの、復興に重ねてこれらを購入する余裕のあろう筈はなかった。艮斎は再び、梧陵にその事情を訴えたところ、梧陵は快諾し、1861(文久元)年、研究資金としてさらに金400両を寄附してくれ、これによって図書および機械類の必要を充たすことができた。梧陵が合計700両という大金を拠出して種痘所再建の援助をしたことは快挙で、わが国医学史上特筆すべき功績というべきである。ちなみに700両は今の価値ではどれほどになるだろうか。1両を10万円として計算すると7000万円になる。
 種痘所は西洋医学所、医学所と改称した後、明治新政府に引き継がれ、大学東校、東校、第一大学区医学校と次々に名称を変え、現在の東京大学医学部となった。東京大学医学部は、1958(昭和33)年に迎えた創立百年の記念に、1961(昭和36)年文化の日、ここ発祥の地に記念の元標を建てた。上掲の写真はこの記念標である(千代田区岩本町2−7)。
            
                                       
注  記事中の下線部(種痘所設立当初の拠金者数)は、82名説もあるが、伊藤卓雄氏の指摘(読者の感想の便りを参照)に従い、83名説を採った。
   川波 重郎
   
資料 
  ☆ 川村純一 「濱口梧陵と医学」 崙書房出版 2008年11月25日刊
  ☆ 深瀬泰旦 「伊東玄朴とお玉ケ池種痘所」 出門堂 2012年12月20日刊
  ☆  同     「天然痘根絶史」 思文閣出版 2002年9月28日刊
  ☆ 日本人名大事典 「濱口梧陵」 平凡社
  ☆ 万有百科大事典 「種痘所」 小学館
  ☆ 世界大百科事典 「西洋医学所」 平凡社
  ☆ 一坂太郎 「幕末歴史散歩 東京編」 中公新書
  ☆ 伊藤卓雄 「幕末維新期に種痘の普及に献身した医師たち」
      ウェブサイト「寄付の相談 調査室」 比較と評論の部に掲載
  
参考:梧陵は、1854(安政元)年の南海大津波の際に、紀州廣村で無償の献身的な救済を行った。
    彼をモデルとする「稲むらの火」は、戦前の国定教科書に採録されて広く知られている。
                  

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(160220追加、160324補正)