公益のための寄付にかかわる 事績、逸話、記念物、人物などのお話 です。


東大安田講堂


東大安田講堂  「安田講堂」は寄付者の名にちなむ通称で、公式名称は東京大学大講堂である。本郷通りに面した正門をくぐると銀杏並木の正面にゴシック調の大きな建造物がそびえている。東京大学、ひいては日本のアカデミズムを象徴する建築物といってよい。
 安田講堂の名前と姿がひろく知れ渡ったのは、東大紛争のさなか、学生と警察との間で起きた攻防戦からであろう。紛争の発端は、インターン制度に代わる医師登録制度の導入に反対して1968(昭和43)年1月に始まった東大医学部学生のストライキと抗議行動であったが、この学生運動は東大全学に及び、しだいに激しさを増し、過激派の一部学生は「東大解体」を叫んで安田講堂を占拠、封鎖した。大学の加藤総長代行は事態の収拾をはかり、翌1969(昭和44)年1月18日、占拠を排除するため8500人の警察官が出動した。バリケードを固め、石や火炎瓶を投げて抵抗する学生にたいし警察はガス弾と放水でこれを排除し、翌19日に封鎖を解除した。両日のこの攻防戦はテレビの実況中継で全国に放映され、一般の大きな関心と反響を呼んだ。

 大講堂建設の発端は、1921(大正10)年、安田財閥の創始者、安田善次郎の寄付申入れであった。すなわち、同年5月6日、安田善次郎は東京帝国大学の古在由直総長と会見し、同大学に大講堂と便殿を新築の上寄付することを申し入れた。大学評議会はこれを受諾することを決め、総長は敷地を現位置に定めた。基本設計がただちに工学部教授内田祥三のもとで開始され、建築委員会および建築実行部の2組織が設置された。翌1922(大正11)年12月に着工、翌々1923(大正12)年2月に地鎮祭を挙行した。基礎工事が進む途中で同年9月の関東大震災に遭い、若干の被害があった。1924(大正13)年4月に工事を再開し、1925(大正14)年7月6日に竣工式が執り行われた。
 翌7月7日付の東京日日新聞は次のとおり報じている。
「善美を尽した東洋一の大講堂 安田家の寄附で出来上がった帝大の大講堂の落成式は、六日午後三時から文部大臣を初め各省高等官及び局長級、安田保善社幹部等来賓約四百余名を招じて盛大に挙行された。同講堂は内田祥三博士の設計でゴシック式、音響試験装置は中村博士の設計である。・・・正面中央の玉座には両陛下の御真影を奉置し・・・貴賓室、控室、各室ともあらゆる設備はその壮麗と相俟って、さすがに東洋一の名に恥じないものがある。」

 竣工式当日に配布された「建築概要」に記載された大講堂の要点
 構造は鉄筋コンクリート造、4階建、一部地階、塔屋付き、建坪は533坪余、延坪2114坪余。便殿は正面玄関の上部中央にあって藤島武二の描く壁画を三面に掲げる。講堂は直径150尺の半円形をなし、ギャラリーを含めて1738名を収容しうる。講堂天井の中央部を天窓とし、格縁に吸音装置を施し、またステージには玉座を設け、小杉未醒の揮毫する大壁画をもって飾る。主要な部屋、廊下、階段等の床、腰壁に大理石を貼り、チーク等の外材も多く用いた。外壁に暗褐色のタイルを貼り、外観は「質実剛健ヲ旨トシ範を『ゴート』式ニ取リタル自由ナル形式」をもって完成した。

 経費は、当初安田善次郎が示した条件では100万円が限度となっていたが、実際に完成までに要した費用は、震災による被害等があったため110万円となった。ちなみに、当時の給料は、大卒官員(公務員)で最高133円、最低33円、平均50〜60円というところであった。1926年の米価は、白米(1等、10キログラム)が3円20銭であったので、今はその3000倍程度になった計算になる。

                                                             川波 重郎

文献、資料
  ☆ 東京大学百年史 通史2   東京大学百年史編集委員会    東京大学発行
  ☆ 安田善次郎傳  矢野文雄  合名会社安田保善社発行(昭和5年12月28日訂正再版)
  ☆ 松翁安田善次郎  安田学園松翁研究会編  安田学園発行(1967年11月9日)
  ☆ 日本史大事典 第6巻     平凡社刊(1994年2月18日)
  ☆ 大正ニュース事典 Z 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ(1989年10月)
  ☆ 最新昭和史事典     毎日新聞社編  同社発行(昭和61年4月10日)
  ☆ 日本の近代 5 政党から軍部へ  北岡伸一   中央公論新社発行(1999年9月10日初版)

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(070801追加、090509再編)