公益のための寄付にかかわる 事績、逸話、記念物、人物などのお話 です。


鹿鳴館婦人のバザー


鹿鳴館婦人のバザー

 鹿鳴館は、諸外国との不平等条約の改正をめざして政府が推し進めた欧化政策のために建てられ、夜会などの社交行事の舞台となり、その時代の文化現象の象徴となった建造物であった。場所は、麹町区内山下町(いまの千代田区内幸町1丁目。帝国ホテルの隣地)にあった。「総建坪四百余坪にして、二階造りの煉瓦家・・・。日比谷の練兵場より東に望むときは、この館巍然として高く聳え、はなはだ壮観なり。・・・正面の楼上に踏舞室あり、その左右に客間あり、・・・部屋の数すべて四十余あり。館内の装飾美を尽し、工夫を尽し、申し分なし。」

 開館式は明治16年11月28日に挙行された。井上外務卿夫妻が主人となり、祝宴に続き、朝野内外の紳士貴女1300人が招かれて舞踏、奏楽に興じ、花火が打ち上げられ、深夜の横浜行き臨時列車が運行された。饗宴の席で井上外務卿は、「西洋諸国と交際を親密にし、以て今日の友情好意をますます鞏固ならしめん・・・」、「詩経の句に仮りて、この館に命くるに鹿鳴の名を以てしたるは、各国人の調和の交際を表章するの意にして・・・」と演説した。こののち鹿鳴館では、外国貴賓の宿泊、接待のほか、夜会・舞踏会・演奏会などが頻繁に催された。

 評判を呼んだ催しのひとつに婦人たちによるバザーがあった。明治17年6月に3日間にわたり開かれた婦人慈善会の模様を当時の新聞が詳細に報じている。会場となった2階の2室に飾り付けられた陳列棚は13。緑葉で装飾し、日章旗を交叉し、1棚に30〜40種の諸品を載せた。値段を記した紅白の札を付け、出品総数は3000有余。棚ごとに受持ちの係が配置された。すなわち、第1番松方夫人ほか、第2番西郷夫人ほか、第3番大山夫人ほか、と続き第13番長岡夫人ほかまで。ほかに茶店担当の第14、第15番が置かれた。出品物は、手袋、靴足袋、巾着、人形、扇子、手巾、襟巻など多種で、「艶麗なる造花、精巧なる押絵...かつその値も意外に廉なるがごとし。各棚列品の羅綾錦繍五彩相映写して、眩目するの外なし。」。陳列室のほかに書画展観席があり、看客の休憩所には階下の食堂が当てられ、喫煙、茶菓の店が設けられた。
 家にあって夫を助け家事を整理するのが務めとされていた上流の夫人たちがこのような社会活動を企て、実行するのはこれまでの習俗になかったことで、慈善会という新奇な催しとあいまって世の耳目を集め、錦絵の題材ともなった。
 翌明治18年4月には第2回の慈善会が開かれ、またその後に開かれた同年11月の慈善会には皇太后、皇后両陛下の行啓があり、会場ご巡覧と出品物のお買上げがあった。
 慈善会の収入金は、東京有志共立病院(明治15年に高木兼寛が設立。東京慈恵会医科大学の前身)、訓盲唖院(山尾庸三会長。明治13年2月に授業開始。筑波大学附属視覚・聴覚各特別支援学校の前身)ほかへ寄附された。明治20年5月には婦人慈善会は解散して慈恵医院の賛成員となり、収入はまず慈恵医院へ寄附し、剰余を他に贈与することになった。

 鹿鳴館を社交場として繰り広げられた内外貴顕の夜会、舞踏会などの華やかな催し、それは当時の文明開化の風潮の極まりであった。井上外務卿の欧化政策には民権論者や国粋主義者からの反対があったし、外国使臣の歓心を得ようとする政府高官だけの皮相な欧化熱は世人のひんしゅくを買った。井上外務大臣(明治18年に内閣制度が発足)が推し進める条約改正は、その内容が明らかになると反対論が勢いを増し、ついに明治20年9月に井上外相が退陣すると、鹿鳴館の社交場としての役割は終わった。
 鹿鳴館での諸種の催しは、政府が鼓吹した西洋文物の模倣であった。慈善会は、その例外ではなかったけれども、社会奉仕の動機から出た婦人運動のさきがけといえようし、奉仕の態様として創始期にあった慈善事業を励まし支援したことは評価すべきである。さらにその主導・参加メンバーが慈善事業に持続的な支援を行う賛助員に移行したことから、奉仕の理念と実践は鹿鳴館後の時代に引き継がれていった。

川波 重郎

画像: 楊洲周延筆「鹿鳴館貴夫人慈善会図」
     (東京都立中央図書館東京誌料文庫蔵。許可を得ないで複写、複製、転載することはできません。)
資料:
                    
  ☆ 「國史大辭典」第14巻 吉川弘文館(平成5年4月第1版)
  ☆ 「世界大百科事典」第30巻 平凡社(2006年改訂版)
  ☆ 「明治ニュース事典」第3巻 毎日コミュニケーションズ(1984年1月)に掲載の次の新聞記事
     * 鹿鳴館の開館式 (明治16年11月29日 東京日日)
     * 清雅鮮麗にして壮観、煉瓦造りの二階建て (明治16年11月30日 時事)
     * 外人との交誼の場ー井上外務卿が演説 (明治16年12月1日 東京日日)
     * 鹿鳴館でバザーを開く (明治17年6月12日 郵便報知)
     * 第2回バザーの実施を計画 (明治18年2月19日 東京日日)
     * 皇太后、皇后両陛下が行啓 (明治18年11月20日 東京日日)
     * 会を解散して慈恵医院に協力 (明治20年5月1日 朝野)
 

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(090509追加)